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ビヨンセやレディガガの日系3世の振付師Sheryl Murakami(シェリル・ムラカミ)

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ダンサー

祖父が日本人で日系3世のコレオグラファーSheryl Murakami(シェリル・ムラカミ)。日本とも縁を感じるシェリルをご紹介!

プロフィール

 

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名 前 Sheryl Murakami
(シェリル・ムラカミ)
誕生日 6月17日(年齢非公開)
出身地 カリフォルニア州 ロサンゼルス ハンティントンビーチ
家 族 Marcus wolf(ミュージシャン)
身 長 不明
HP http://www.sherylmurakami.com/
Instagram @yosheryl
Twitter @YoSheryl
Facebook @sheryl.murakami
Youtube SherylMurakami

ダンスを始めたキッカケ

 

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Sheryl Murakami(シェリル・ムラカミ)がダンスを始めたのは5歳の時。
シャイで人見知りだったシェリルに、もっと自信をつけてほしいと母親がバレエを習わせたのがキッカケでした。

ダンススタジオの講師に「ダンスのセンスがある」と褒められたことで自信をつけたシェリルは、プロのバレエダンサーを目指すようになります。

しかし骨格や体型を重視されるバレエにおいて、自分の体型はバレエ向きではないと悟ったシェリルは、約15年続けたバレエを辞め、タップ、ジャズ、ヒップホップ、サルサなど他のダンススタイルへとシフトします。

ダンスプログラムにも積極的に参加し、ダンスの業を磨いていきました。ダンスプログラムでは積極的に振付も行いました。

16歳でプロダンサーへ

 

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16歳になったシェリルは、エージェント「ジュリー・マクドナルド」と契約を結び、プロダンサーとしての道を歩み始めます。しかしシェリルの家庭は裕福な環境ではなかった為、家計を支える為のアルバイトが忙しく、思うようにオーディションを受ける事が出来ませんでした。そんな生活が2年続き、ついにシェリルは契約者リストから外されてしまいました。

その頃は悪循環が続いていたの。オーディションを思うように受けられない事にフラストレーションが溜まっていた。それでもダンスを愛していたから、自分の気持ちにコントロールが出来ず、私の家族や周りで支えてくれている人に反抗的な態度を取ってしまっていた。あの頃の私は凄く若かったし、とにかく世界が全て敵のように感じてしまっていたの。
※シェリル・ムラカミインタビューより

活動拠点をNYへ

プロダンサーへの夢を諦められなかったシェリルは、必死にアルバイトでお金を貯め、車を購入します。車で移動できるようになったことで、以前よりダンスの仕事の幅も広がるようになっていきました。

ある日アトランティックシティにあるカジノのホテルでの仕事が入り、ニューヨークへ行くことになります。約2週間のニューヨークの滞在で、すっかりニューヨークを気に入ってしまったシェリルは、なんとそのままニューヨークに移住してしまいます。

ニューヨークへと拠点を移したシェリルは、ほどなくして振付師のジャーメイ・ブラウン氏と出会い、彼に連れられダンススタジオ「Broadway Dance Center(ブロードウェイ・ダンス・センター)」を見学しに行きます。

シェリルのダンスクラスは女性のセクシャリティを出すような動きが特徴なんだ。そのようなダンススタイルはニューヨークで流行っていなかったし、誰もしていなかったんだ。流行りに流されない自由な発想や、彼女の強さと自信は本当に素晴らしいよ
Jermaine Browne(ジャーメイ・ブラウン)インタビューより

そこで見たダンスクラスに衝撃を受けたシェリルは、地元のジムでダンスを教え始めるようになります。そのダンスクラスが徐々に評判を呼ぶようになり、ブロードウェイ・ダンス・センターからジャズファンクのクラスを持たないかというオファーがきます。

ブロードウェイ・ダンス・センターで働き始めたシェリルのクラスは評判も上々、生徒もどんどん増えていきました。

レディ・ガガのバックダンサーに

ある日、ダンスクラスの評判を聞き付けたタレントエージェント会社「Clear Talent Group 」から契約を結びたいという連絡がきました。

タレントエージェント会社との契約を交わしたシェリルは、当時まだ新人だったレディ・ガガのMVに出演し、マンハッタンのクラブで行うデビューイベントにバックダンサーとして参加しました。

ガガの右で踊っているの黒髪のダンサーがシェリル・ムラカミ↓

ガガのスター性を目の当たりにし、ガガから自分らしくいることの大切さを学んだというシェリルは、さらなる高みを目指して自身の会社を立ち上げました。

会社名には自身の振付でよく取り入れていた髪をセクシーに振る「Thrashing Movements(スラッシング・ムーブメント)という動きにちなんで「T(H)RASH」と名付け、街中のクラブやイベントなど精力的に活動していきました。その後13年間ニューヨークで活動した後、再びロサンゼルスへと戻ることにしました。

ビヨンセとの仕事

ロサンゼルスへと戻ったシェリルは、ビヨンセのクリエイティブディレクターが新しい振付師を募集しているという噂を聞き、ビヨンセの新曲「EGO」のデモMVを製作しました。

そのデモをたビヨンセが気に入り、アルバムに収録予定ではなかった「EGO」を急遽アルバムに収録し、ミュージック・ビデオも撮影されることになったのです!このミュージック・ビデオを機にシェリルはビヨンセのワールドツアー『I AM SASHA FIERCE TOUR』のコレオグラファーとして正式に招待されることになりました。

ビヨンセが私のデモビデオを見たときに、もう一度、歌に恋をすることが出来たと言ってくれたの。
Sheryl Murakami(シェリル・ムラカミ)インタビューより

その後ビヨンセの「Dance for you」「Run the world(Girls) 」のミュージック・ビデオの振付を担当し、「Run the world(Girls) 」ではMTV ビデオ・ミュージック・アワード2011で最高の振付賞を受賞しました。

2分35秒あたりからビヨンセの左後ろで踊っている黒髪のロングがシェリル↓

ミュージックビデオを作るのは大好きよ!

いつも振付を考える時は曲を何度も聴いて振付のイメージを膨らませていく。視覚的にイメージトレーニングすることが大切なの。

24時間続く撮影でも私は構わない。撮影はいつも大変だけど、出来上がった作品を見る時はまるで魔法に掛けられたような幸せな気分になる。

素晴らしい音楽はずっと残るものだから、視覚的に印象づける事も意識している。例えば登場人物をクローズアップしたり、セットを変更したり、インパクトのあるシーンを使うことで、”スタンプ“のように視覚的に印象を与えていくのが鍵ね。
シェリル・ムラカミインタビューより

シェリルはその後も精力的に活動を続け、ピットブル、2NE1、ピクシー・ロット、 ジョリン・ツァイなど多くのアーティストの振付を担当しました。

フィギアスケーター高橋大輔の振付を担当

 

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2019年、4年ぶりに競技復帰をしたフィギアスケーターの高橋大輔選手のショートプログラムの振付を担当。

高橋選手は白鳥の湖とヒップホップを融合させた「SWAN LAKE(2007)」というショートプログラムを滑る際、ヒップホップをニューヨークのブロードウェイ・ダンス・センターまで習いに行ったことがあり、そのスタジオで働いていたシェリルのダンスを見かけ、その衝撃が忘れられなかったんだとか。このエピソードを高橋選手から聞いたシェリルは「信じられない!それはとても光栄です!」と大変驚いたそう。

そして10年越しに共演を果たした2人。
復帰作には全米1位にも輝いた米人気ロックバンド フォール・アウト・ボーイの「ザ・フェニックス(不死鳥)」という高橋選手の復活にピッタリの曲が起用され、力強い振付で観客を魅了しました。

シェリルは現在、ダンスカンパニーEDGEでダンスコーチを続けながら、世界中でワークショップを開催しています。今後はコレオグラファーだけでなく、MVの総監督になりたいと語るシェリルの活躍が楽しみですね!

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